サンドアーティストのスダマとは、日本語講師のボランティアをしている学校で仲良くなった。
学校の校庭に砂でお寺を作ると言うから、持ち前の好奇心で手伝わせて欲しいと言ったことがきっかけだ。
同い年ということもあり、一緒の作業をしていたら意気投合、彼の家に招待してくれた。
彼の家に行くと、ぶどうやクッキーを出してもてなしてくれる。
しまった!!何か持ってくればよかった!!
日本だったら友達の家に初めて行くときには、ちょっとおみやげを買ったりする。
それなのに、インドでは忘れてしまうなんて、なんだかしてやられた感じだ。
国は違っても人をもてなす心は同じだ。
こんな当たり前のことが抜けてる自分にちょっと腹が立つ。
次からは!!と心に誓った。
スダマは自分のアルバムを見せてくれて、家族や故郷のことを教えてくれた。
スダマの話しはインドをもっと知りたい私達にとって、とても面白かった。
何も知らない国で、その国の人が家に招待してくれて、アルバムを見せてくれるなんて嬉しいことだと思う。
日本に来てくれた外国人に、私は同じことができるかしら。
恋人の写真を見せてくれたときは「彼女のこととても愛してるの??」なんて聞くととても恥ずかしそうでかわいい。
どこの国でも恋の話しと下ネタは盛り上がるのだ。
帰るときには自分の作品の入ったDVDをくれて、「日本の人にもサンドアートを知らせてください」と言った。
私たちもデジカメで撮ったスダマやサンドアートや一緒に遊んだ時の写真をDVDに録画して渡した。
さてさて日記を読んでいて、いったい現地の人とどうやってコミュニケーションをとっているんだと疑問に思う人もいるのではないかしら。
英語がぺらぺらなんじゃって思ってる人には申し訳ないが、私達のしゃべれる英語なんて恥ずかしながら中学レベル・・・・・・。
スダマだってアメリカ人じゃないし、難しい英単語は通じなかったりする。
でもこれが不思議と成り立つのだ。
言葉がわからないからこそ、必死で相手の表情を読み取ろうとするし、真剣に耳を傾ける。
それは相手も一緒だ。
旅ではボディランゲージも顔ランゲージも超有効。
冗談で笑いあうことだって出来る。
写真や絵という媒体があればさらに分かりやすい。
それから白人同士の流暢な英語より、母国語じゃないからこそちょっとゆっくり大きな声で話してくれるインド人の英語の方が、私達には聞き取りやすい。
ちなみにインド人は小学1年生から英語の授業があるから、日本人より話せることは間違いなく、好奇心旺盛だから外国の人とコミュニケーションをとりたがり、自然にうまくなるようだ。
話す時は相手に好奇心をもって、もっともっと知りたいと思うことに尽きる気がする。
そうしたら相手もそれと同じように私と接してくれる。
日本にいたら日本語なんて当たり前で、一生懸命聞かなくても分かるから、なにげない態度で聞き流してしまうことがある。
でもその態度はやっぱり相手にも伝わって、私の印象を作り上げてしまってきていたのだと思う。
おしいことをした!!と思う。
どこの国にいても自分と話す相手は自分を映す鏡なのだ。
わかりたいと思えば、コミュニケーションに時間がかかることにイライラなんてしない。
わかったひとつひとつがうれしい。
伝えたいと思えば、相手がわかるまで何度だって違う言い方でトライできる。
伝わるひとつひとつがうれしい。
そんなコミュニケーションが楽しくないはずがない。
旅をしていて思うことは、外国人が遠くの存在だと感じるのは「物理的な距離」ではくて、「心の距離」だということ。
自分が「孤独」でいることも「友達を作る」ことも全て自分次第ということだ。
今ある出会いは今の自分と等身大の出会いで、そしたら今の旅は今の自分にしか出来ない。
出会いは人生のひとつだから、私は自分で人生を決めているんだ。
「自分が自分の人生を決めている」ということを感じる旅の感覚が私は好き。
日本にいても、今ならそういう旅の感覚を持っていられるような気がする。
どこにいても自分の人生を自分で決めていると思えば、なにがあったって自分で乗り切らなくては仕方ないと思うし、楽しみたければ自分次第だ。
プリーのインド人はみんな楽しそうに見える。
陽気に「ジャパニーズ、ハロー」「こんにちわ」「元気??」「さようなら」と誰もが声をかけてくる。
興味のある対象に見て見ない振りなんてしない。
日本でちょっと気になる外国人を無視して生きてる私達より、「ちょっとでも声をかけて反応を見ちゃおう」と好奇心まるだしの彼らの方がそれは楽しいはずである。
どこにいても出会いを楽しむことが出来る。
日本に帰ってもずっとこの感覚を持ち続けたい。
そしたら永遠に私たちは旅人でしょう。
学校の校庭に砂でお寺を作ると言うから、持ち前の好奇心で手伝わせて欲しいと言ったことがきっかけだ。
同い年ということもあり、一緒の作業をしていたら意気投合、彼の家に招待してくれた。
彼の家に行くと、ぶどうやクッキーを出してもてなしてくれる。
しまった!!何か持ってくればよかった!!
日本だったら友達の家に初めて行くときには、ちょっとおみやげを買ったりする。
それなのに、インドでは忘れてしまうなんて、なんだかしてやられた感じだ。
国は違っても人をもてなす心は同じだ。
こんな当たり前のことが抜けてる自分にちょっと腹が立つ。
次からは!!と心に誓った。
スダマは自分のアルバムを見せてくれて、家族や故郷のことを教えてくれた。
スダマの話しはインドをもっと知りたい私達にとって、とても面白かった。
何も知らない国で、その国の人が家に招待してくれて、アルバムを見せてくれるなんて嬉しいことだと思う。
日本に来てくれた外国人に、私は同じことができるかしら。
恋人の写真を見せてくれたときは「彼女のこととても愛してるの??」なんて聞くととても恥ずかしそうでかわいい。
どこの国でも恋の話しと下ネタは盛り上がるのだ。
帰るときには自分の作品の入ったDVDをくれて、「日本の人にもサンドアートを知らせてください」と言った。
私たちもデジカメで撮ったスダマやサンドアートや一緒に遊んだ時の写真をDVDに録画して渡した。
さてさて日記を読んでいて、いったい現地の人とどうやってコミュニケーションをとっているんだと疑問に思う人もいるのではないかしら。
英語がぺらぺらなんじゃって思ってる人には申し訳ないが、私達のしゃべれる英語なんて恥ずかしながら中学レベル・・・・・・。
スダマだってアメリカ人じゃないし、難しい英単語は通じなかったりする。
でもこれが不思議と成り立つのだ。
言葉がわからないからこそ、必死で相手の表情を読み取ろうとするし、真剣に耳を傾ける。
それは相手も一緒だ。
旅ではボディランゲージも顔ランゲージも超有効。
冗談で笑いあうことだって出来る。
写真や絵という媒体があればさらに分かりやすい。
それから白人同士の流暢な英語より、母国語じゃないからこそちょっとゆっくり大きな声で話してくれるインド人の英語の方が、私達には聞き取りやすい。
ちなみにインド人は小学1年生から英語の授業があるから、日本人より話せることは間違いなく、好奇心旺盛だから外国の人とコミュニケーションをとりたがり、自然にうまくなるようだ。
話す時は相手に好奇心をもって、もっともっと知りたいと思うことに尽きる気がする。
そうしたら相手もそれと同じように私と接してくれる。
日本にいたら日本語なんて当たり前で、一生懸命聞かなくても分かるから、なにげない態度で聞き流してしまうことがある。
でもその態度はやっぱり相手にも伝わって、私の印象を作り上げてしまってきていたのだと思う。
おしいことをした!!と思う。
どこの国にいても自分と話す相手は自分を映す鏡なのだ。
わかりたいと思えば、コミュニケーションに時間がかかることにイライラなんてしない。
わかったひとつひとつがうれしい。
伝えたいと思えば、相手がわかるまで何度だって違う言い方でトライできる。
伝わるひとつひとつがうれしい。
そんなコミュニケーションが楽しくないはずがない。
旅をしていて思うことは、外国人が遠くの存在だと感じるのは「物理的な距離」ではくて、「心の距離」だということ。
自分が「孤独」でいることも「友達を作る」ことも全て自分次第ということだ。
今ある出会いは今の自分と等身大の出会いで、そしたら今の旅は今の自分にしか出来ない。
出会いは人生のひとつだから、私は自分で人生を決めているんだ。
「自分が自分の人生を決めている」ということを感じる旅の感覚が私は好き。
日本にいても、今ならそういう旅の感覚を持っていられるような気がする。
どこにいても自分の人生を自分で決めていると思えば、なにがあったって自分で乗り切らなくては仕方ないと思うし、楽しみたければ自分次第だ。
プリーのインド人はみんな楽しそうに見える。
陽気に「ジャパニーズ、ハロー」「こんにちわ」「元気??」「さようなら」と誰もが声をかけてくる。
興味のある対象に見て見ない振りなんてしない。
日本でちょっと気になる外国人を無視して生きてる私達より、「ちょっとでも声をかけて反応を見ちゃおう」と好奇心まるだしの彼らの方がそれは楽しいはずである。
どこにいても出会いを楽しむことが出来る。
日本に帰ってもずっとこの感覚を持ち続けたい。
そしたら永遠に私たちは旅人でしょう。

