2008年3月アーカイブ

死を待つ人の家

マザーハウスで一番有名な場所、カーリーガート。別名「死を待つ人の家」
俺はここでお世話になった。
その名の通り、ここは死を待つ人の部屋。
難病を患わせた人や、病院に見捨てられた人、また道端で息絶えそうだった人をここで介護している。

どんなところなのかは行くまで全く想像がつかなかった。俺みたいな人間がいきなり行って、その光景に耐えることができるのだろうかが不安だった。そんな場所で自分が何の役に立てるのかが不安だった。
それでもマザーテレサは「Come and See」と言って迎えてくれる。
俺はその言葉に甘え、こんな俺でも何かが出来ると信じ、ここへの参加を決意した。

とは言え、やはりその門をくぐるまで、俺の頭は不安でいっぱいだった。

その日の朝、マザーハウスでのミサが終わり、朝食を食べた後、カーリーガートへ向かう。

そこまでの道のりは、ごく普通のインドの風景と何ら変わりはなかったと思うが、俺の目には何となく違って見えた。
普段はうるさいインド人も何故かこの道のりでは誰も声をかけてこない。
自分で決意して参加したとは言え、このときばかりはうるさいインド人に気を紛らわせて欲しかった。

その願いも叶わず、俺は不安を隠しきれないまま静かにその門をくぐる。
シスターに一礼をし、奥へと入っていく。
そこには約50のベットが広がり、たくさんの人達が横たわっていた。奥には女性用のベットが並んでいるらしかったが、ここからは見えない。
見える位置に寝ているのは男性の姿ばかりだった。

でも、俺は彼らの姿を見て少し救われた。気持ちが落ち着いた。
なぜなら、そこには笑顔があったから。
皆、自分がここでどうなっていくかを知っているのに、そんなことを感じさせないぐらい元気そうな人もいる。
中には、ボールをボンボン投げて遊んでいる人の姿も見えた。
もちろん、ここに運ばれて来ている以上は、皆なんらかの病にかかっている患者が全てだし、いくら元気そうに見えたからと言って、気持ちを緩めることはできない。
ただ、あまり構えすぎず普通に接すればいいんだとこのとき初めて思えた。

最初の仕事は、食器洗いと洗濯。
次から次へと運ばれてくる洗物を流れ作業で洗っていく。
この持ち場は、裏の仕事なので直接患者とは接しない。他のボランティアと話しをしながら特に患者のことを意識することなく働くことができる。
何となく仕事の要領も掴み、他のボランティアと溶け込めてきた頃、俺の後ろを一つのタンカーが横切るのが目に入った。そこには全身を真っ白な布で覆われた人が横たわっている。その人がどうなってしまったのかは一目瞭然。

「昨日は何人死んだ?」

「一人だけだ。」

という誰かの会話もこのときに聞こえた。おそらくここでは普通の会話なんだろうが、その衝撃は大きくて言葉にならない。他の日本人のボランティアもいたが、この話題には触れることができなかった。

洗物が終わると、いよいよ患者と接する。

このとき初めて、患者達の様子をじっくりと見ることが出来た。
点滴や呼吸器を付けながらゼーゼーと苦しそうな呼吸をするおじいちゃん。
一見元気そうだが、体中にわけの分からない腫瘍がある人。
中には小学生ぐらいの男の子の姿もある。
この人達のほとんどが、ここで死を待っているという現実がとても信じられない。

俺は彼らの一人一人に「ナマステー」と挨拶をしながらベットの間を歩いていった。
その途中、少年からボールがまわってきたとき「おー!」っとオーバーリアクションでそのボールを受け取り、投げ返してやるとケラッケラと笑ったその顔が愛らしかった。

途中途中で、患者に声をかけられ、「水を持ってきてくれ」と頼まれたり、時間を聞かれたり、「昼ご飯何?」と聞かれたりした。ちょっとやんちゃな患者は「お願いだからタバコを一本くれ」とせがんできたが、笑って断るしかない。
本当はタバコの一本ぐらい吸わせてあげたい気持ちもあるんだけど、そういうわけにもいかず、心の中で「ごめん!」と言った。

あるおじいちゃんに足のマッサージを頼まれた。
と言っても、そのおじいちゃんは口に管が入っておりあまり喋ることが出来ずにいたため、隣の患者が俺にそう代弁をした。
もちろん喜んで引き受けた。その太ももに手を当てると、それは女性の手ほどの太さしかない。
足が痛むらしい。でも、この痩せ細った肉のない足をどう揉んであげたらいいのかが分からず躊躇したが、たまたま通りかかったシスターに「軽く摘んで、撫でてあげて」という支持をもらい、それを実行した。

マッサージをしている間、おじいちゃんからは特に反応がなく、ただ「ゼーゼー」と息をしている。
言葉も通じているかがわからない。それでも終始話しかけながら彼の表情を少しでも読み取ろうと努力した。
どれだけ時間がたったのか性格にはわからないけれど、おそらく15分後ぐらいたったとき、隣の患者さんが「もういいよ。ありがとう。」と言ってくれたので手を止めた。
このとき、「ゼーゼー」言っていたおじいちゃんが、少しニコッとして軽く頷いてくれたのが嬉しかった。


俺達がここを訪問したとき、インドはホーリーというお祭りの時期と重なった。
そのため一般のボランティアはお休みになり、マザーハウスには2日間しか行けなかったけれど、この2日という短い時間に3人が亡くなった。

ただ、インドという国は、そこら辺の路上で孤独と戦いながら生活していている貧しい人がたくさんいる。その中には、誰にも気が付かれずに死んでいく人がたくさんいる。
それを考えると、もしかしたらカーリーガートで息を引き取ることは、彼らにとってはまだ幸せなことなのかもしれない・・・。

 

インドでは間違いなく日本よりも「死」との接点が大きい。それがここカーリーガートならなおさらだろう。
日本で育った俺にとっては、有り得ない場所だった。
ここで感じた感情や、学んだことは本当に大きい。

何年か前に友人が亡くなったとき、その通夜で何だか凄くパワーをもらったのを思い出す。
人が亡くなるのは本当に辛いことだけど、その人の分まで生きようと思える。
また、その通夜では久しい友人との再会なんかもあり、「天国で彼が俺達をまためぐり合わせてくれたんだー」なんてことを話したのを思い出した。
そういう再会や、彼らとの会話の中で「俺も一生懸命生きなきゃ!」と思い直させてくれることがある。
人が亡くなってしまうという最悪の事態で唯一救われる感情だと思う。

今回も、ここカーリーガートで同じようなことを思った。「死」と直面できたからこそ「生」を考え直せた。

こんなことってなかなか考えないことだけど、考えなきゃいけないことだと思う。

いったい日本ではどれだけの人が本当に一生懸命生きてるだろう?

「別にてきとーに生きてても、誰にも迷惑をかけてなければいいや」って思う人もたくさんいるだろうけど、それは絶対に間違ってる。

俺は日本で生まれて日本で育った。それは本当に幸せなこと。

もしも俺がこのまま死んでしまっても、多くの人が見守ってくれるだろう。それは本当にありがたいこと。

そのとき、それが一人でも多くのパワーになるように生きていきたい。

孤児の家

マザーハウス1日目

「COME & SEE」

マザーハウスの残した有名な言葉で、実際に「来て見て」感じてほしいという願いが込められているのだと思うけれど、言葉どおりマザーハウスは誰にでも門戸を開いている。

私達もマザーハウスを訪ね、まず説明会に参加した。
ここで、働く上での注意事項を伝えられる。
虱・疥癬、結核にうつる可能性とその予防方法の説明をされ、遊び半分・興味半分で来た人々はやる気を失っていく。 
正直私もびっくりした。
ここでは誰もが病気と隣り合わせなのだ。
自己管理を徹底しないと、人助けなどできない。
そんな当たり前のことを実感した。

マザーハウスには6箇所のボランティア施設があり、シスターとの面接を経て、私は「孤児の家」、有希は「死を待つ人の家」でお手伝いさせてもらえることになった。

孤児の家ではハンディキャップを持った幼児の生活介助が主なやるべきことだった。
子どもにご飯を食べさせること。
それぞれの子どもにカルテがあり、そのカルテに書いてあるとおりのエクササイズやマッサージをすること。
トイレに連れて行き、用を足したらお尻をきれいにしてあげること。
オムツの子はオムツを取り換えてあげること。
汚れた服の洗濯。

どれも私にとっては初めての体験で、新鮮な気持ちになった。
子どもを持つ母親には当たり前の出来事なのだと思うけれど、私にまだ子どもはいないし、ちょっとした予行練習気分も味わえた。

子ども達はかわいい。
子どもというだけでかわいいのだから、ただ一緒にいることで元気をもらえることがたくさんある。
笑ってくれたとき、ご飯を吐き出さずに食べてくれたとき、体をやわらかく動かせたとき。
私は純粋な気持ちをもらって、一緒に笑顔で喜びあうことができる。

けれどもその反面、ここでは死がとても身近で、どうしようもなく不安な気持ちになることもある。

子ども達はそれぞれに障害を持っていて、ほとんどの子どもが誰かの手を借りないと生きていくことができない。

シスターやボランティアの人達は本当に優しく子どもの面倒を見ている。
それでも厳しくしなければいけない場面がある。
それは食べること。
食べなければ死んでしまうから、食べることを拒否する子どもを許すことはしない。
今日も3人がかりで、一人が子どもの手を上でくくって押さえ、私が頭の位置を固定させ、シスターが無理やり子どもの口を開いて食べ物を流し込んだ。
子どもは食べるのがつらいからなのか涙を流し、ものすごい力で抵抗してくる。
すぐに吐き出そうとするので、食べ物を口に入れて無理やり飲み込ませるまで舌の上をスプーンでずっと押し続けたり、口を閉じたらあごを上に持ち上げて喉が上下するまで押さえつける。

それを見ていると、自分の力で生きていくことが出来ないだけでなく、生きることそのものが辛い子どもがいることがわかる。
無理やり生かすことが、果たしていいことなのかわからなくなってしまい迷い始めると、それが不安になるのだ。

それでもボランティアとして参加する以上、私は子どもの命の責任の一旦を担っている。
自分の担当する子どもにご飯を食べさせることが出来なければ、その子どもは確実に衰弱し、やがて死を迎える確立が高い。
命の責任を放棄することなんて、私には怖すぎてできないから、無理やりにでも子どもを生かそうと行動するしかない。

ほとんどの日本人には信仰がない。
マザーテレサには信仰があり、自分の迷いも何もかもを内に抱え込み、人助けが出来たのだと思う。
それは素晴らしい事なのに、私は信仰がない。
生きているものが命を大切に扱うことが、生命・人間そのものを尊ぶことなのだということを信じることで、子どもの辛い顔を見ながらも生かそうとしているのが今の私だ。

人はなんで、生まれながらに差別されるのだろうと皆が一度は考えるのではないだろうか。
容姿にしかり、才能にしかり、体の丈夫さにしかり。

自分にはどうにもできないところで、生まれながらに見捨てられてしまった子ども達と共に生きること。
それは差別を克服することになるのだろうか。
皮肉にも生まれながらに差別があるからこそ、私達は差別をしてはいけないのだと気づくのかもしれない。
物心がついてから自分が差別される原因を作るのとは、全く訳が違い、生まれながらに差別された子どもは生きることができない。
それを放っておくということは、生命の大切さを認めないことにつながるから、きっと人は手を差し伸べる。
生命の尊厳を守ることは、どんな人でも同じ人として見ていくことで成り立たつのではないだろうか。

母親にメールをした時に「愛情に囲まれて育った私達には、生まれながらに捨てられた人の気持ちはわからないかもしれないね」というメールが返ってきた。
そう言われると、私は確かに愛情に囲まれて育ってきた。
そしてマザーハウスの子ども達は一度愛情に見捨てられた。
逆に言えば、マザーハウスの子ども達は愛情を得られる対象をまた得ることが出来た。
対象を見失ったまま死んでしまう子だっていることを考えたらそれさえ恵まれているのかもしれない。

では彼らはなんのために生まれてきたのだろう。
愛から見捨てられるために生まれてきたなんて、絶対におかしい。
私は人の幸せは愛されることだと思う。

どんな状態であれ、彼らは生きている。
生きているのは幸せになるためなのだと思いたい。
私は彼らのこれからの幸せと生命の輝きを信じたい。
だからここにいる間、彼らに愛が伝わるように、毎日笑顔で話しかけよう、抱きしめよう。

ここに今自分がいるということは、死を考え、生を尊び、人としてどうすべきか学ぶ機会をマザーから与えられたということだと思う。
この場を与えてくれた全ての人に感謝したい。

日本で私の家は犬を飼っている。
有希の家は猫を飼っている。
飼っている以上、もちろん愛情を持っていて、どうやら動物の方も人間のことが大好きで、それが伝わってくる。

でも、自分のペット以外のことを私はあまり考えたことはなかった。
動物のことで唯一私が意識しているのは、動物実験している化粧品会社の物を使わないこと。
もちろん動物実験が医学の発展などに役立ったことを考えると、一概にそれを悪いことだとは思っていない。
ただ自分の肌に直接使うもので、「動物実験をしないと人にどう影響が出るかわからないような物質が入っている」というのは嫌なのだ。
それに何かを犠牲にして自分の外見を装うことに、何の意味があるのか私にはわからない。

話しはそれてしまったけれど、SMILE EARTH PROJECTとしては人間だけでなく、自然と他の生き物と共生できる社会の一端を担いたいと思っている。
それがSMILEのたくさん生まれる世界だと思うから。
自然がなくなれば人は生きていけないし、逆に生き物が全ていなくなっても、今の自然が育つ土台の肥料を十分に保てない。
今の地球が成り立っているということは、食物連鎖の奇跡だけれど、そういうことは本で勉強できる。
そして絶滅の危機に瀕している動物がたくさんいることは知っていて、どうにかしたいと思っても、問題が大きすぎて私達にはどうしようもない。
もっと自分達で何か出来るレベルのことはないのだろうか。
実際にその土地で生き物がどういう扱いを受けているのか、そういうことを伝えた方がみんなにも出来ることを考えやすいと思う。

身近な生き物のこと、自分で見て感じたい。
その思いから、タイのチェンマイでアメリカ人をオーナーに持つ動物シェルターに見学したいとお願いし、シェルターの仕組みを観察させてもらい、半日間犬や猫と遊ばせてもらうことになった(この手続きは旅の同行者で親友の絵描きのかんなちゃんがしてくれた、ありがとう、かんなちゃん)。

タイの動物シェルター、タイは日本ほどペットという概念が発展していないので、動物を大切にするという感情が日本ほどにはない。
だからそんな施設があるというだけで、最初は驚いた。
いったいどんな施設なんだろう。
ワクワクしながら、アメリカ人のオーナーと一緒に施設に向かった。
大きな庭のある家についた。
たくさんの緑の残る家には高い門があり、犬たちが飛び越えられないようになっている。
犬たちはものすごくジャンプ力があるのだ。
主人が来たことが動物達には敏感に分かるようで、犬がみんな門のところに集まってきた。
中に入っていくとみんながオーナーに飛びつく。
やっぱり犬の忠誠心はすごい。
大きな犬が飛びついてくる様子に、有希は及び腰になっている。
正直、ちょっと怖い、というのが最初の印象かもしれない。
みんな人間に捨てられたり迫害を受けてきた犬たちだから、次に続いた私達にはなかなか懐かなかったけれど、しばらく側にいるとだんだんと近くによってきて甘えてくれるようになった。
素直にうれしいし、なついてくれると現金なもので途端にかわいく見えてしまう。
犬とじゃれあっている時間は幸せ。
本当、私達って愛情によって関係が成り立つ生き物だ。
人の感受性って言うのはすごい、好きだと言う気持ちが伝わってくるとこちらも優しい感情を持ってしまうのだから。

それにしてもここのシェルターは変わっていると思う。
病気だとか、他の犬に噛み付いてしまうとかそういった特定の理由を持つ犬はそれぞれのケージがあるけれど、後はみんな庭を自由に走り回っている。
日本でシェルターと言うと、それぞれの犬がそれぞれのケージに分けられていて散歩の時しか出歩けないようなイメージだった。
このほうが犬が元気に跳ねっかえり、本来の姿のままきびきびと幸せそう。
へ~、いい感じの場所だな、素直にそう思った。
猫は他の場所にいて、猫にもやはりケージはなく、与えられた庭の一部分を自由きままに動き回っている。
やっぱり猫も本来の姿のままのんびりしているように見える。
犬や猫、彼らの個性を大切にしていくことが、動物を大事にしていくことなのかもしれないな、生き生きとした目の動物達を見て思った。

それぞれの犬、猫にはカルテがあった。
拾ってきた時の様子も書いてあるし、写真つきで成長を追ってあり、アルバムのようなになっている。
みんな避妊手術や予防接種を受けていて、その記録も細かくつけられている。
誰が見てもどんな犬か猫かわかるようになっているのは、世話がしやすいだろうと思う。

最初、私は避妊手術がひどいことだと思った。
でもここには、彼らの子どもを育てるより、他の野犬や野良猫を保護したいという意向があるのだった。
そして子宮があると病気になりやすいともきいた。
野犬や野良猫の扱いはひどいもので、もともとそれを守るために作られたシェルターがここなのだ。

私はなんだか複雑な気持ちだった。
犬や猫にとって何が幸せなのか私に推し量ることはできない。
もっと勉強も必要だ。

でも少なくとも、ここの動物達は幸せそうに見えた。
そして、日本よりも動物と人間の関係が平等に見えて、それがすがすがしく感じられた。
世話をしている主なタイ人たちは、オーナーに雇われて働いている有給の人たちだけれど、大学生のボランティアなども来るらしい。
みんな毛をとかしてあげたり、病気の犬のマッサージをしてあげたりと、動物に愛情をたくさん持っている。
ここから少しずつ動物を守りたいとか、動物ってかわいいものだなという感情が育ち、広がっていくことを思うと、この施設がここにあることの有意義さにちょっと胸を打たれる。
ここに施設を作ったオーナーは偉い。
アメリカで半年働いたお金をほとんどここで使ってしまうと言うのだから、彼の動物好きの精神には脱帽である。

ここでわかったことは、そういう取り組みをがんばってくれている人たちがいるということ。
世界にはもっとたくさんの活動家がいることだろう。
とにかく動物を愛する一つの形を見ることが出来て、私にはそれだけでも収穫だった。
ひとつ、私には目標が出来た。
動物にもっと敬意を抱くこと。
私達の暮らす環境の一端に彼らがいるということ、常にそれを忘れずにおきたいと思ったのだ。

僕たちの見たラオス

ラオスで癒された人は多いと思う。
目が合うとほとんどの人がニコッと笑ってくれる暖かな国民性。
駆け引きを知らない商売下手な人々。
恥ずかしがり屋ですぐにはにかむ子どもたち。

ラオスの何が良いって言ったらとにかく人がものすごく良い。
東南アジアで一番なんじゃないかな。

そんなラオスだけれど、ラオスってどこ??って知らない人も多いと思う。
ラオスには素晴らしい人々と素晴らしい自然がたっぷりある。

ラオスの人がどんな人か、どんな国なのかをちょっと書いてみよう。


まず、国民性はボーペンニャン。
日本語のニュアンスは「気にしない!!気にしない」
と、さばさばした人柄が好まれるらしい。

ビエンチャンで訪ねた指差し会話帳の著者の方はレストランを経営している。
ここでラオス人気質の真髄を聞いた。
彼によるとラオスは日本人の常識をぶち破る面白さがたくさんある。

まず、遅刻は平気。
何度しても反省はしないらしい・・・・・・。

経営者やマネージャーが本人に気を使って「気にしないでいいよ。次から気をつけよう」というのは日本でもよくある光景。

ラオスでは・・・・・・

遅刻した本人が明るく笑顔で、

「ボーペンニャン」

と言ってくるらしい・・・・・。


これは上司なら普通怒るはず。

ラオス人はというと、怒ると拗ねて働かなくなるらしい。

子どもじゃないんだから!といいたくなるけど、やっぱり彼らは純粋な子ども心を大人になっても保ち続けているのだ!!

プライドが高いのか、素直すぎてショックを受けてしまうのかは知らないけれど、この自由さはちょっとうらやましいかも・・・・・。

ラオスでレストランを経営して学んだことは怒らないことらしい。

私たちも食事したときにラオス人のアルバイトの学生が何度もお会計の金額を間違えて持ってきた。

5回以上。

最終的には計算機を貸してあげた。

でもアルバイトの彼は笑顔でエヘヘと笑い、謝ることはない。

こんなときに日本の上司なら怒ってしまうはずだけど、ラオスでは「もう一回確かめよう」くらいが調度いいらしい。

ちなみにアルバイトの学生の子の笑顔がかわいすぎて、何度ミスされても嫌な気持ちにならず、許してあげてしまうのは、ラオス人の魅力にはまっているからなんだろうか。
それともラオスを流れるメコン川に夕日が映り、大量発生するピンクの靄に体が侵されているのかもしれない・・・・・・。
なんにせよ、心が寛大になっている自分を体感できるのは素晴らしいので、許す!笑。


そして、彼らは普通に何も連絡なしに休むらしい。
そして、何も理由を言わずにまた働きに来るらしい。

これでは日本じゃ首が飛ぶこと間違いなしだけど、彼らに責任感という認識はないそうだ。
だから、ここで首にしたって、次に働く人も同じだからこっちもボーペンニャン」と思うしかない。
こうして、新しいラオス人が誕生するわけだ。
仕事に責任がないということは、ストレスゼロの社会ということ!
素晴らしい!!

とにかくストレスゼロの社会で生きたいならラオスがおすすめ!!


そのほかに、彼らは揉め事・喧嘩が大嫌い。
友達が誰かと揉めていても、絶対に関わらないよう距離を保つらしい。
軽薄に感じるけれど、ラオス人の温厚さを物語ってはいる。
こんなとこにも、ストレスを避ける見事な精神が表れているのだ。


おかげで彼らはベトナム戦争のときも、ベトナム人からラオス人はすぐに逃げると馬鹿にされていたらしい・・・・・・。

かわいそうだけど、なんだかわかる気がする・・・・・・。


それでも独立のために戦ったラオス人もたくさんいる。
彼らの気質から考えて、苦痛だったに違いないので、今でもアメリカ嫌いな人が多いみたいだ。

さて、ラオスは戦争してたなんて事実もあまり知られていないと思うけど、
ラオスは世界で一番爆弾が落された国だそうだ。

ベトナム戦争の折、『北爆』と呼ばれたアメリカ軍の空爆はラオス北東部を中心に約300万トン落としたという説があって、これは当時ラオス全人口一人につき約1トンもの爆弾が落とされたという計算になる。

ラオスだけでなく、アメリカがベトナム戦争で使用した空爆の量は、第二次世界大戦で使われた全ての量をはるかに上回ると言われている。

そのせいで、今でも残った地雷や不発騨により怪我をする人が毎年出ているのは悲しい。
誰にでも優しいラオス人が傷ついていくのは悲しい。

今、ラオスでは人口の80%が農業を営み、水田耕作や焼畑を行ったり、またタケノコや薬草など森の恵みを利用しながら生活している。
それが近年では、生活環境が大きく変化し、化学肥料や農薬を使用した近代農業のやり方(一時的に作物量は上がるが土地が痩せ、長い期間での豊かさは望めない)が山間の村にも浸透してきたり、また企業による工場進出や植林の拡大によって、かつて村人が使用していた森林が徐々に失われつつある。国によるダムの建設での森林伐採も原因のひとつだ(日本が援助して作ったダムの影響でも、かなりの生活貧困者が出た)。

ラオスの人々の生活を助けてきた森がなくなるということはラオス人の心をもいでいくようなもののように感じる。
彼らは田んぼや畑で作物が獲れなくても、森の恵みで飢餓を防いできた。
失敗しても、何もなくとも何とかなる「ボーペンニャン」の気質はここから生まれているのではないだろうか。
彼らの大らかさが森のすべてを包み込む優しさの反映のように思うと、ベトナム戦争と同じように先進国がラオスに与える被害は少なくない。

昔はものを買うとバナナの葉に包まれてでてきたものが、今はビニール。
彼らはバナナの葉が土に帰ることはしっているが、ビニールが土に返らないことを知らないのだ。

そんな事実もある中、それでも私たちの見たラオスは、未だ多くの森林が残り、森林を中心とした豊かな生態系と調和した生活がまだ確かに息づいていた。

ラオスの人々には森とともにいつまでも「ボーペンニャン」と笑顔でいて欲しいと思う。

また会う日まで。

アーカイブ