2008年2月アーカイブ

ゴミ捨て場で拾った知識

この文章はラオスの古都ルアンパパーンで会った青年の書いた文章です。彼は独学で日本語を勉強し、ついに日本語コンテストというラオスの首都ビエンチャンで開催されるコンテストの出場権を手に入れました。1位になると日本で勉強する権利が得られます。以下の文章はブイ君が日本語コンテストのために書いた作文になります。ブイ君に許可を取り、この文章を公開させていただきます。ラオスの現状が少しでも伝わったら幸いです。
ブイ君はこの文章を始めて見せてくれた時「僕の心を込めて書きました。宝物です」と言って渡してくれました。

「ゴミ捨て場で拾った知識」

みなさんこんにちは。はじめまして。
私の名前はウイエンサイです。あだ名はブイです。わたしは20歳です。
私のふるさとはラオスの世界遺産のルアンパパーンです。
日本語を勉強するのがとても好きです。

今日は私にとってとても大切なことを話したいと思います。
私は子どものときに勉強したかったのですが、村に教材が全然ありませんでした。
私にとっての初めての英語の本は、村の川沿いのゴミ捨て場から拾ってきました。
そのことはまだ私の心に残っています。
その挿絵がとても面白かったことを覚えています。
例えばりんごや鳥の絵などいろいろありました。
けれども全部で14ページしかありませんでした。

私は学校で勉強したかったのですが、授業料がとても高く、私の家族は貧しかったので友人たちのように学校に行く機会に恵まれませんでした。

ところがある日、私の夢が叶いました。村にボランティアで英語の先生が来たのです。
毎日私は古い自転車で学校に通いました。村から学校は遠く離れていたので、雨が降ったときは通うのはすごく大変でした。
私は先生と8ヶ月英語の勉強をしました。

しかし、ある日悲しいことが起こりました。先生が去ってしまったのです。でも、私は勉強することをやめませんでした。
毎日英語と日本語の勉強を続けました。
私は12歳で仕事をはじめ、そして稼いだお金を学校の授業料に当てました。それはすごく大変な日々でした。しかし、私は今の生活はいつか必ず良くなると信じて、頑張りました。
私には大きな目標がふたつあります。

ひとつはいつか奨学金をもらって日本で勉強することです。なぜなら日本語をもっと勉強したいからです。難しい目標ですが、精一杯頑張ります。

もうひとつの目標は先生になることです。なぜなら私は子どもたちに教えることが好きだからです。先生になり、恵まれない田舎の子どもたちに教えたいです。私は子どもたちに喜んでもらうことで暖かい気持ちになります。世界の子どもたちの笑顔が見たいです。私はより良い未来のために、より一生懸命がんばります。
いつか私の夢が叶うと信じています。どんな壁があっても私は乗り越えられます。

私は今まで生きていくことの厳しさを色々勉強しました。
新しいことを学ぶことは私の成長につながります。
今回、私は初めてビエンチャンに来ました。
この機会を通して、私は成長したと思います。
今はとても幸せです。

本日はお忙しい中お越しいただきまして、ありがとうございました。また、私のスピーチをお聞きくださいましたことを心より感謝しております。どうもありがとうございました。

 

これで文章はおしまいです。
ものすごく素直で人柄のよい、20歳の純粋さも兼ね揃えたブイ君とは、ルアンパパーンという街でご飯を食べる席が一緒だったことから知り合いました。
すぐに打ち解け、2日間一緒にすごさせてもらいました。彼の素晴らしさに触れ、心を洗われた想いです。
特に、一緒に行った村の学校で、飛び入りで授業をしていたブイ君の姿は心に焼き付いています。笑顔全快で体を思い切り使って授業する彼は、私が今まで見てきた先生の中でぴか一輝いていたし、彼の授業を受けたら、私だって今頃英語が大好きでぺらぺらだったに違いないと確信するほど、楽しくて素敵な授業でした。
あぁ、ここに彼の授業の映像が載せられないことが本当に悔やまれます。
いつか、何か彼の役に立ってあげたいと心から思います。
今、何も出来ない自分がいます。
本当に素敵なものをブイ君からはいただきました。
ずっと忘れません。ありがとう。

ラオスの子どもの教育事情

ラオスの子どもの教育事情について今日、「ラオスの子ども」というボランティア団体を尋ねました。教えていただいたことを感想と一緒にまとめます。

ラオスの義務教育は5年間で小学校5年生までになります。
日本の義務教育9年に比べたら、ものすごく短い!!
体育・美術・工作とかの時間なんてとれないそうです。
うわ~、唯一好きな時間だったのに!

しかも、実際に小学校5年生までのすべての学年を完備した学校は、全国8600校のうち、3500校しかないのが現状だそうです。
こっちで友達になったラオス人の男の子も学年が変わるごとに違う地域の学校に通わなくてはいけなくて本当に大変だったそうです。
これはかわいそう。
中には遠すぎて通うのをあきらめてしまう子どももいるんだとか・・・・・。日本人には想像できない世界です。

その状況下で、純就学率は男子88パーセント、女子82パーセントだそうです。
一部の子どもは、労働力として家族の生活を支えているため、学校には通えないという現実が残っています。

生まれた場所や家庭の違いで学校へ通うことができないということは、とても悲しいことだと思います。
勉強が出来なければ、将来豊かになる可能性も減ってしまい、貧しい家に生まれた子どもは一生貧しいままになってしまう可能性が高くなります。
日本でも最近このことが問題になっているけれど、日本の場合は子どものやる気さえあれば教材は溢れているし、近くに図書館だってあります。
でも、こちらの子どもは子どものやる気のあるなしにかかわらず、教材さえ足りていません・・・・・・。
ひとつ思うことは、勉強して家族を幸せにしたいと真剣に思っている子どもの数は、圧倒的に日本よりも多いんじゃないかということです。

日本で言う中学・高校の学年数はやはり6年間で、中学と高校に分かれてはいません。
学校数は小学校に比べるとものすごく少ない900校にとどまり、進学できる子どもたちが限られてしまいます。
特に学校が遠いというのは通う子どもの負担になり、特に女の子などは危ないからという理由で進学をしない場合もあるそうです。

それでもラオスは女の人が良く働いているし、家庭でも女の人が強いそうなのでそれは救いです。
逆に男の人は怠け者が多いんだとか。

成人の識字率は男性が77%、女性が61%です。

この識字率を見ていただけると察しがつくと思いますが、小学校1年生になって、彼らは初めて文字を習います。
日本と違い、両親が文字を教えることができないからです。

ラオスの学校には学年ごとにテストがあり、受からないと次の学年に進学することができません。中でも、文字をはじめて習う小学校1年生が一番落第者が多いそうです。

この背景に、ラオスでは母国語による教育が軽視され、口承で文化を伝えることが多かったため、社会に本が出回っていないということが挙げられます。
このため、本を読む機会が不足し、子どもたちは自ら能力を伸ばす機会を損ねています。
本を読むことは、知識を得るだけでなく、物事を多角的に見る能力を育て、道徳心を養うことにもなります。

本が少ないということは母親が子どもに本を読み聞かしたり、文字を覚えさせる機会も減らしてしまいます。

子どもにとって、実は本事態の内容はそんなに重要ではないと言われています。
母親にどんな声で語りかけてもらえたか、それが愛情を受けとったということになるのだそうです。
小さなころに本を読んでもらった子どもは自分の子どもにも同じことをするでしょう。
すると、愛情も伝わるし、文字を覚えることにも役立ちます。

ラオスでは、本がないために、文字をせっかく覚えても、文字を読む機会が少ないため、忘れてしまうことも多々あるそうです。

こうした現実を見て、本がたくさんある日本に生まれた私たちは実はとても恵まれていたのだということに、気づかされました。

こうした実態を打開しようと、今日お邪魔させていただいた「ラオスの子ども」というNGO団体では、子ども向けの図書を発行し、図書を学校に配り、学校に図書室を開設し、読書推進セミナー(こうしたプロジェクトが将来は現地の人々によって担われるよう、図書の維持・管理、図書室の運営方法、本の読み聞かせ方など教員に対するセミナーを行っている)を実施しています。
さらに、子ども文化センター(図書室を軸に、絵や工作、詩、音楽、踊りなど学校では行われていない表現活動の場)の運営の支援もしています。
また、画家や作家を育てるために、絵本作りのワークショップをしたり、コンクールを主催し、大賞を実際に出版するというような活動もしています。

以上の活動により、子どもたちにどんな成果があったかというと、①ラオス語の能力の向上、②知識を得た、③積極的になった(ラオスの子どもが消極的だった原因に先生の一方通行の授業がありました。本を仲介させることにより、先生が子どもに質問し、それに子どもが答えるということを繰り返したことで、子どもが積極的に発言をできるようになってきたそうです)、④勉強ができるようになった、⑤学校を休まなくなった(今まで怖いだけの存在だった先生が本を読んでくれるようになったということで、学校が面白くなった生徒もいたそうです)ということです。

「ラオスの子ども」についてもっと知りたい方は下記のURLからどうぞ
http://deknoylao.org

今日、お世話になったのは日本の女性の方で、ラオスの大好きな素敵な女性でした。
青年海外協力隊の隊員時代にたずねたとき、ラオスの人々にたくさんの優しさをいただいたから、それを返すためにライフワークとしてラオスの教育にかかわって生きたいと話していらっしゃったのが印象的でした。

私から見てもラオスの人々はとてもおおらかで優しく笑顔が素敵で、一緒にいると心から癒されます。
外の国の私たちにも気さくに話しかけてくれて、決してしつこくはありません。誰もが、ラオスは人が良いと言います。
今までアジアを旅していた中でもダントツに裏表のない人の良さを感じました。

近代化の波が押し寄せ、紙幣が流通したことにより、貧富の差が拡大し、物乞いなのどの貧困層が現れ始めたのはつい最近のことだそうです。

今まで、ラオスでは横のつながりが強く、相互扶助が当たり前、みんなが助け合って生きてきた民族です。
例えば、米が取れない飢饉のときも、飢え死にを一人も出さず、村人みんなが栄養失調になりながら支えあっていたこともあるようなそんな社会です。これがアフリカなら大変な餓死者が出ていただろうと言われています。

それが資本主義導入により、少しずつ崩れていっているのを目の当たりにするのは、本当に悲しいことです。
貧富の差を国の問題として捉え、みんなが自分の未来を自分で掴んでいけるような社会の実現のためには、やはり教育が不可欠でしょう。

ラオスの人々がいつまでも、おおらかに笑っていてくれることを心から願います。

ベトナム戦争とホー・チ・ミン

私はベトナムに来るまで、ベトナム戦争のこととか、ベトナムの植民地時代のこととかほとんど知らないでいた。
そういえば、昔、お父さんがベトナムは人としての尊厳を大国(アメリカ・フランス)から守り抜いたすごい国だと言っていたなぁというくらい。

そんな何も知らない状態で行ったホーチミンの戦争博物館で、私は泣いた。

アメリカ批判的な展示が多く、中でも枯葉剤の影響で頭が二つになった胎児のホルマリン漬けとか、爆弾で傷つけられた人々の生々しい写真はショックだった。
原爆博物館よりも生生しさを伝えている点では上だと思う。

なんで、私が泣いたのかというともっと別のこと。

その博物館の中で、戦争反対運動が世界各地で起こっていたことを知った。
アメリカ国民が焼身自殺して、「ベトナムの人は自分たちと同じ国の国民によって、こうやって殺されている!」と抗議した人もいた。
他の国の人でも戦争に反対して、やはり焼身自殺して戦争の悲惨さを訴えようとした人がいた。
アメリカでも日本でも世界各地で戦争反対のデモが起こり、ベトナム戦争を地球市民全体で戦争を嫌う空気が出来上がっていった。

日本でもベトナム戦争をさわり程度に勉強したけれど、アメリカの戦争への正当性のなさだけが強調され、アメリカの国民がこの戦争にどれだけ反対していたかなんて知らなかった。
反対運動の中、撃ち殺された人もたくさんいて、そんなことも私は知らなかった。
同じ時代に生まれてないから知らなくていいなんて言ったらそれまでだけど、私はみんなにこの事実を知ってもらいたいと思った。

国家権力が国民の意識と無関係に戦争を推し進めた事実というのは、民主主義を唄う国家にあってはならないことだ。

そんな中で、自分を犠牲にしてでも他の人を助けようという意識が、この時に各地で爆発したということには、胸を打たれずにいられなかった。

アンネ・フランクじゃないけれど、人間の本性は善であるって本当だなって思ったよ。

そしたらしばらく涙が止まらなくなってしまって、博物館でとても恥ずかしい思いをした。


人民を無視して、自分たちの利益のために暴走する国家があるということは歴史上多々あった事実。
ベトナム戦争は一面で、まさにその事実に抵抗し、人の善とは何かをみんなに問いかけた戦争ではなかったのだろうか。


このベトナム戦争の折、ベトナムの代表者であったホー・チ・ミンはアメリカ国民に手紙を書いている。
戦争している国の国民を友と呼び、自由を必ず獲得することを誓っている。
彼はベトナム戦争が終結する前に亡くなったが、最後までベトナム国民の自由を守ろうと戦った人だったと伝わっている。

圧倒的にアメリカよりも軍事力のないベトナムを支え、最後まで戦い抜くことを決意した人物がどんな人物なのか。
私たちは、ハノイにあるホーチミン廟に今なお眠っている彼の遺体をたずねることにした。

「ホー・チ・ミン」名前はとても有名だけれど、実際には私も詳しく知らなかったのでちょっと説明を加えます。
知ってる方は飛ばしてください。

①ホー・チ・ミンは植民地時代からベトナム戦争時代までベトナム革命を指導したベトナム労働党主席で、ベトナム民主共和国初代大統領(国家主席)。現在のベトナムでも建国の偉人として尊崇を集めています。

②遺骸はレーニンにならい永久保存されて、南北統一後ハノイのバディン広場に建設されたホー・チ・ミン廟に安置されていて、私たちはここを訪れました。

③船員としてフランスとアルジェリア、チュニジア、コンゴなどのフランスの植民地とアメリカ、ヨーロッパ諸国を回った冒険家だったことにも、なんだか恐れ多いですが共感を覚えます。

④革命によって権力を握った共産党指導者が独裁的になり、反対派に血の弾圧(粛清)を行う例が多い中にあって、ホー・チ・ミンは、腐敗・汚職に無縁で、禁欲的で無私な指導者であり、自らが個人崇拝の対象になることを嫌っていたといわれています。
その慈愛に満ちた飄々たる風貌で民衆に愛され、晩年は国民から「ホーおじさん」と呼ばれ今なお親しまれています。

⑤ホー・チ・ミンは自伝の類を残さずに死んだため、後継指導者層や軍人達の間でも「ホー・チ・ミンが何も語らずに逝ったのに、我々が何を言えるだろう」として自己の業績について殆ど語らないという伝統が生まれました。

と、これだけでも高潔さと非凡さは伝わってくる。

ハノイ最後の日、憧れになりつつあるホーおじさんの廟の前は大行列。
本当に会えるのか不安になりつつも、ディズニーランドの乗り物前のような大行列の中を歩いた。

そしていよいよ対面の時がやってきた。

眠っている姿は、なんだか見ているこちらが安堵してしまうような穏やかさのただよう寝顔だった。
今にでも「おはよう」と言いそうなくらい血色も良い。

不思議な気持ちになって、その後、今でも残っている彼の家を訪ねると、ラオスでは一般的な高床式住宅で、贅沢さとかは微塵も伝わってこなかった。
ベッドも普通の人サイズだし、華美な装飾もない。

私もよっしーもなんだかほっとしてしまった。

ホーおじさんを訪れたことでベトナム観光の区切りがついたと思う。
知らなかったベトナム戦争についても自分たちなりに考えることができてよかった。

国民が目指すべき、尊敬すべき人物を持っているということはいいことだ。
そこに尊敬する心が生まれ、自分が謙虚になることができるだろうから。

世界中で、これから自分の憧れる人物像にまだまだ出会うかもしれない。
これからも楽しみだ。

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