ポル・ポト政権はもともとリセ(学校)だった建物を1975年から1979年にかけて監獄として使用し、罪のない人々を数多く投獄し、拷問し、処刑した。
処刑された人々の数は明白になっているだけで約2万人で、そのなかには2000人の子どもも含まれていた。
家族の誰かが捕まると、一族も全員捕まったからである。
博物館は4棟あり、教室の中には、改造した独房、集団房、拷問に使用した器具、犠牲者の遺品が残っている。
中でも、入獄時と処刑後にとられた数多くの写真が、これが遠い昔に起こったことではなく、最近起こったことだと生々しく伝えている。
ポル・ポト政権下で、ポルポトは教育を受けた人は自分に反抗する可能性があると考え、学校をほとんど廃止にし、子どもたちにだけ、自分の考え方を教え、兵士として育てた。
徹底した社会革命を主張して都市の廃絶を指示し、国民全てを農業に従事させ、そこで出来た米を中国に売り、中国からは武器を買って国を強くしようと考えた。
プノンペンの知識層の人たちを皆田舎に連行し、農業を押しつけた。
ポル・ポトは、独裁に反対する可能性のある人々は集団的に殺され、首相をつとめた3年間に、100万人以上が処刑、病気、飢えなどで死んでいったと推測されている。
政権の悪口を言った人は見つかり次第すぐ殺され、また復讐を恐れたため、その家族、親類もみな捕まえて殺された。
家族や仲間を見つけるために、トゥール・スレーンで拷問をした。
その大多数の人が無実だったという。
博物館には数多くの拷問の光景を描く絵が残されているが、なかでも衝撃的だったのは、女の人の乳首をペンチで切りとって、その中にムカデやサソリを入れていく絵だった。
まさに狂気の沙汰であるが、看守たちも必死だったという。看守も少しでも手を抜いているとすぐに密告され、今度は自分が拷問を受ける番になったのだ。
また、拷問中になにも自白がとれないまま、囚人が死んしまっても責任を問われたため、死なせない程度の拷問が毎日続いていた。
囚人は自殺を望み、トイレで自殺が多かったため、トイレの利用が禁止され牢屋の中に小さな箱がトイレ用に置かれた。これは拷問の時に気絶した際、気付けの道具としても使用された。
さらに、食事中にスプーンで喉をさして自殺する囚人も多かったため、食事を手で食べさせた。
飛び降り自殺を防ぐため鉄網が今でも教室を覆っている。
さらに、ここで料理を作っていた女の人たちは、何も知らずに仕事があるといって集められ、一定の期間働くと、ここの秘密を知ってしまったという理由で殺され、何度も入れ替えられたそうだ。
博物館では死んだ人々の首から上の骸骨が展示され、今も悲しみに溢れている。
ポル・ポト政権がベトナム軍に追われて逃げると、カンボジアの国民は皆、この博物館に来て家族がいないか探したそうだ。1週間に3万人もの人が訪れたという。
ポル・ポト政権の下では家族が一度に捕まらないため、みんながばらばらになって暮らしていた。
戦争が終わるとまず、自分の家族を探したのだ。
博物館を案内してくれたのは、私たちのフリースクールの先生の一人だが、彼のお母さんも親兄弟全て殺され、自分だけが運良く生き延びた人だという。
カンボジアでは親族全員が戦争を生き延びたという人がほぼいない。
親族の誰かが必ずポルポトの被害者なのだ。
だから、今でもみんなが戦争の恐怖を知っている。戦争の悲惨さを知っている。家族が離れ離れに暮らす辛さを知っている。
この博物館では、二度とこのようなことが起きないため、戦争の残虐さを伝え続けている。

