2008年1月アーカイブ

愛センター最後の日

20080131_200801305.jpg 愛センター最後の日、夕方6時半。
あと1時間でここでの生活が終わる。

授業が始まる前から俺はもう感極まってしまってどうしようもない状況。
予想通り情けない・・・。
最後の最後、一番頑張らなきゃいけないところなのに声が出ない。声を出した瞬間に胸の中が爆発してしまいそうで、引きつった笑顔を作っておくのが精一杯だった。

授業が始まった瞬間、生徒達の「せんせい、こんばんわ~」の号令を聞いた瞬間にその全てが壊れた。
いきなりの退室。未完成のトイレの前、1人で大号泣。
どう考えてもこの状況であと1時間はもたない・・・。

教室では生徒達が俺達にメッセージをくれている。それがこの場所まで何となく聞こえてきた。
葵は今、1人でそれを聞いている。

戻らなきゃ・・・。

キツいけど戻らなきゃ・・・。

生徒達は、日本語や英語で一生懸命、俺達に言葉をくれた。
「せんせいがきてからほんとうにまいにちたのしかったです。」
「からだにきをつけて、これからもがんばってください。」
「まいにちハッピーでいてください。」
「トイレ、ありがとうございました。」
「ぜったいまたカンボジアにきてください。」

そして葵ちゃん、大爆発で退室・・・。

1人になった俺は生徒達の目を見てあげられなかった。
あんなに一生懸命メッセージをくれている生徒達にちゃんと言葉を返してあげられなかった。
ただその生徒の目を見ていることが精一杯だった。
ここに立っているのが辛かった。

「わたしは、あまりにほんごをはなせませんから、あんまりおはなしできなくてごめんなさい。でもやくそくします。こんどせんせいがカンボジアにもどってくるまでにもっとべんきょうして、もっとおはなししたいです。だからぜったいまたきてください。」

ある生徒が日本語でくれた言葉。

お前、そんだけ日本語で喋ってたら十分だよ。俺なんか、クメール語なんて全然できないよ。簡単な挨拶と簡単な数字しかわからないんだから。もっとクメール勉強すればよかったね、ごめんな。

俺は結局、この1時間泣きっぱなし・・・。


本当にいい学校にお世話になったと思う。
みんな素直ないい子で、誰一人として憎たらしい子なんかいない。

そもそも俺は教育のプロフェッショナルでも何でもなく、ボランティアとして参加したものの、彼らに何も教えてあげることができなかった。
毎日、教えられてばかりだった。
それでも子供達は「せんせーせんせー」と呼んでくれた。

ほんとにほんとにありがとう。


俺は、自分の身を削ってまで人のために何かできるほど大きな人間じゃない。
ボランティアって言ったって、自分の経験のために参加してみたかった部分がかなり大きい。
「人のためにがんばる!」というよりも、そのあとに言ってもらえる「ありがとう」を期待していた。
誰かに頼られてる感覚や、何かを成し遂げた達成感を味わいたかっただけだった。

こんなことを言ったら、本気でボランティアしている人に怒られてしまうかもしれない。

でももし、「ありがとう」という言葉や、それに代わる心の見返りがないところで俺はボランティアなんてできるのだろうか?
それは正直、不安なところだ。

今回、お世話になったフリースクールでは、十分過ぎる程の心の見返りがあった。
子供達は俺達を必要としてくれたし、その元気な姿に俺達はいろいろな感情をもらった。
別れの際、泣いてくれた子もいた。
いつもは攻撃をしてくるのに、最後はその小さな手でギュッと抱きしめてくれた子もいた。

「ボランティアをする」というと「やってあげる」的な少し上から目線になってしまうのかもしれないが、俺達はそんなに偉いもんじゃない。
今回それをよく理解できた。

見返りを求めている以上、俺達がこの学校でしてきたことは本当の意味でのボランティアではなかったのかもしれない。
トイレを作ったことがボランティアではないのかもしれない。


でもね、子供達や先生方とみんなで一緒に「笑顔の共有」が出来たことには心から満足してるし、誇りに思う。


これからも一つでも多くのステキな出会いをしていきたい。

キリングフィールド

20080127_0801251.jpg 1975年から3年8か月20日間のポルポト時代、国民は強制的に農民にされ、田んぼや畑で働かなければならなかった。

ポルポト時代には人口の30%200万人くらいの人が死んだといわれている。
前の政権で働いていた人、医師、外国語が話せる人、教師等の知識人は全員殺された。
また眼鏡をかけている人も知識人とされ、殺された。
さらにはソフトハンドと呼ばれた人(手が柔らかい人は農民ではなく知識人だと思われた)も殺された。

なぜか?

知識を持った人間を生かしておくと、あとで復讐される恐れがある。
それを恐れたポルポトは、知識人や裏切り者のどちらか少しでも疑いのある人間を生かしておかなかった。
完璧な共産主義を目指した。

その、死刑場に使われたのがここキリングフィールド。

1979年、ベトナム軍がプノンペンに侵攻し、戦争でポルポトが敗れた後、たくさんの人が田舎からプノンペンに戻ってきた。
プノンペン中心から15キロくらい離れた「チュン・エク」(中国人のお墓)に戻ってきた人たちは、死体の匂いに気づき、そこで無数の死体に気が付いた。
1980年、新しい政府はこのキリングフィールドの穴を掘り始め、今までに86個の穴が掘られ8985体の骨が見つかっている。
しかし、これらは全てではなく、あと43個の穴が湖の下に眠っている。そこにはまだ1万人以上の遺体が眠っているとされているが、湖に埋まってしまった穴は掘り起こすのに莫大な金がかかるため、未だにできないでいる。

穴からは今でも、雨になると犠牲者の骨や服が出てくるらしい。
しかし、毎年たくさん雨が降るせいで、キリングフィールドの穴は次第に小さくなり、たくさんの穴が湖に沈み、将来、この穴は全て無くなってしまうかもしれないといわれている。
そのまま埋まってしまう1万人分の骨の中に魂が残っていたら、自分たちがそこに埋まり続けることをどう思うだろう。

キリングフィールドでは2万人の人が殺されたと推定されているが、そのうちのほとんどがトゥールスレンの囚人で、その他の人はプノンペンに住んでいた知識人たちだった。
トゥールスレンについては前の日記を参照してほしい。
彼らのほとんどは田舎に住み、あまり教育を受けたこともない無実の人たち。しかし彼らは理不尽な疑いをかけられ、拷問されて殺される。

また、トゥールスレンの拷問スタッフ、またキリングフィールドで処刑をしていたスタッフ達は、仕事をしなければ殺されてしまうため、友達でも、家族でも殺さなければならなかった。
もし働かなければ、裏切り者とされ、自分が拷問をされてしまう。自分が処刑されてしまう。
ここで働いていたスタッフ達も歴史の犠牲者だ。

キリングフィールドの場所は当時隠されており、「秘密を守ること」が一番大切だったため、処刑は夜に行われた。
たくさんの囚人を一度に処刑することはできなかったため、囚人たちは目隠しをされ足枷をつけられ「死を待つ部屋」で自分の順番を待たされた。
彼らは自分が処刑されることを知っていたという。
キリングフィールドから生き残った人は一人もいない。
処刑の方法には、頭を木の棒で叩いて殺す方法、刃物で刺して殺す方法、ヤシの木の枝のとげで喉を刺して殺す方法、首つり、子どもの足を持って木に打ち付けて殺す方法などがあった。
また、スレンという毒薬の致死量を調べるための人体実験もしていた。

いずれにせよ、お金がかからず、音が出ない方法での処刑で、銃の使用はなかった。
銃を使わないのは、音が出て秘密がばれる可能性があることと、銃の玉の値段が高いためだ。


昔は秘密の場所だったこの場所も、今では当時の様子を観光地としてはっきり残している。
生きた子どもを打ち付けた「キリングツリー」や首つりを行った太い木もそのまま残っている。

今、私達がこの場所に立つ意味とは、この歴史を繰り返さないことを誓うためである。
慰霊塔に眠る頭蓋骨には斧や棒で処刑されたことを物語る傷があるものが多く、歯が未だに残っているため、記憶は新しいものとして生々しい。たった30年前の事実。

しかし、この凄惨な歴史を、今の若いカンボジア人はあまり知らないのだそうだ。
現在のカンボジア人でも親籍が全員無事にポルポト時代を生き延びたという一家は数少ない。
それなのにポルポトのことを伝えられない理由は、今でもポルポトの勢力が残っている可能性におびえているからだという。
今の王様も以前にポルポトと繋がっていたことがあるため、学校でも教師が怖がって、ポルポトのことを子どもに伝えることができないそうだ。
強制的に搾取されるということは、人の心に恐怖を生み、正義の心や反抗する心を摘み取ってしまうのだろうか。
カンボジアの人々はまだポルポト時代の傷を抱えて生きている。
精神的な面だけでなく、ポルポト時代に学習の機会を奪われたカンボジア人の識字率は低く、そのせいで経済発展に歯止めがかかっているとも言われている。
また、田舎で暮らす人々は子どもに知識を持たせることを今でも恐れ、子どもを学校に行かせないという事実もある。

ポルポトの歴史をカンボジアの人たちが忘れずに、前へ進んで行くことができるよう祈ります。

私達は信じています。

だって、フリースクールの子ども達は、毎日元気いっぱいで私たちに笑顔をくれるから。

色鉛筆で「I LOVE YOU」

20080125_0801231.jpg 色鉛筆で絵を描く授業をした。
課題は「好きなもの」。

驚くことに、何を描くかに悩んだ子どもがいなかった。
みんな、描きたいものがすぐに決まる。
絵にしてもなんにしても、カンボジアの子どもは自分の思いをすぐに表現することができる。
誰かの顔色を伺って、何をするか左右される子など、ほとんどいない。
だから、20人以上いるクラスの中で、誰かと同じような絵を描く子はいなかった。

きっと普段から、自発的に自分の行動を決めるくせがついているのだ。
なにもかもやってあげてしまう日本とは違って、お父さんもお母さんも忙しいから、みんな自分のことは自分でしなくてはならない。
だから日本の子どもより、自分で何かを決めることが得意なのだと思う。

それからもうひとつ感心することは、子どもたちがすすんで、授業前の準備や後片付けのお手伝いしてくれるということ!!
例えば、足りない机や椅子があったら、自分のものでなくても運んでくる。
ホワイトボードに授業中に先生が何か書いたら、当番でもないのに誰かが必ず消して、次の授業の準備をしてくれる。
小学校1年生くらいの子どもでも、お片付けがしっかりできるのはすごい!

これも普段から、家の手伝いをすることが、生活の一部になっているから出来ることなのだろうな。
お手伝いを楽しそうにしてくれるのは、家のお手伝いをして家族に褒めてもらえたり、「ありがとう」と言ってもらえたりして、人の役に立つことはうれしいと知っているから。
今の日本では出来てないことだなぁ、と彼らを見て思ってしまう。
豊かになりすぎて、昔は家の生活で自然に子どもが学べたことが、今の日本ではできなくなってしまっているのではないかしら。

カンボジアでは学校で音楽もなければ美術の授業もないそうだけど、絵を描いている時間はみんながすごく楽しそうで、やる気もまんまん。
ちょっと描くと、すぐに私のところに持ってきて「先生、どう?どうしたらいい?」と聞いてくる。
私が美術の先生だったら、全員に意欲の項目は100点をあげちゃう。

心配していたのは、色鉛筆の数少ない色の問題。
フリースクールにある色鉛筆は全部で6色くらい、ほとんどが寒色系で、暖色は全部で5本くらいしかなかった。
暖色の色鉛筆が取り合いになるんじゃないかと少しハラハラしていたけれど、みんなが喧嘩することもなく、貸し合って絵を完成させることが出来た。
もともとものが少ないから、みんなで一緒に使うということが自然に出来てしまうんだよね。
独り占めするより、みんなで一緒に楽しみたいという考え方が自然に身に付いている。
これってすごく、素敵なことだ。

そんなふうに、みんなが優しくて一生懸命だったから、とっても味のある絵が描けた。
私からはみんなに「I LOVE YOU」と描いた。
みんなの絵の中にもたくさんの「I LOVE YOU」が描いてあって、温かい気持ちでいっぱいの授業になったのだ。

カンボジアのごみ山ステメンチャイ

ゴミ山は首都プノンペンの中心地から5キロほど離れたゴミ集積所で、ここにはプノンペン中のゴミが収集車で回収され、集まっては積み上げられ、山のような外観になっている。
プノンペンにはゴミ焼却施設も、埋没地もないそうだ。

ゴミ山に近づくと、白い煙があちこちで上がっていて、そのうち白い煙で3メートル先も見えないようになってしまった。
ゴミの匂いも煙に混じり、強烈に鼻をつく。
物の燃える匂いだけではなく、生ゴミの酸っぱい匂いも混ざり、目にも染み、私は持っていたタオルで顔を覆いながらゴミの上を歩いていた。
鉄板を敷いて作った道もゴミに溢れ、ゴミ意外に足場はない。

私「この白い煙は何ですか??」

ソレン「カンボジアは暑いです。ゴミが自然に燃えます。」

ゴミが自然発火する。
確かに日差しは肌を焼くほどに熱く、日中は35度を超えることもしばしば・・・・・・。
これはとっても危ないことだ。
見渡す限りのゴミに、分別された様子はない。
生ゴミも、可燃ゴミも、金属もプラスチックもそこら中に落ちている。
ビニールやプラスチックが燃えるので、煙は絶対に有害だ。
ダイオキシンも大量に発生しているという・・・・・・。

そんな中を大人も小さな子どもたちも、大きな袋を引きずりながら歩いている。
ゴミの中から、金属やペットボトルやプラスチックなどのお金になりそうなものを拾って生活しているそうだ。

裸足の子どももいて、みんな全身が真黒。
足場にはガラスの欠片だってところどころに落ちている。
ゴミの上は足場が悪く、今は乾期だからまだいいものの、雨期は普通の人には歩けたものではないという。
そんな中で働いて、煙や泥で汚れた体を洗う水はどう考えてもない。

怪我をしたって消毒もでないで、放っときぱなしだから、傷跡の痛々しい子がたくさんいる。
火傷跡のような痣だらけの子もたくさんいる。

思った以上の最悪の事態にショックを受けながらさらに先に進むと、ゴミの中に立つ木の家が目に付いた。
よく見ると、今にも倒れそうな木と布で出来た家の中で、家族で御飯を食べている。

私「彼らはここに住んでいるんですか?」

ソレン「そうです。彼らには家がありません。住むところも働くところもありません。」

私「えぇ!!もう少しましなところに行けないんですか??」

ソレン「どこに行くんですか。彼らにはお金がありません。」

こんな鼻の曲がりそうな匂いの中、目に染みる有毒の煙の中で食べるご飯はいったいどんな味がするんだろう。
家の中の小学生くらいの女の子と、その子が抱きかかえている赤ん坊が目に入った。
ここに生まれてくる子もいるんだ・・・・・・。

彼らにはここが家だからそれは当り前のことなのかもしれないけれど、私にはここで暮らすことなど想像もつかないし、ここで成長する子どもがかわいそうで仕方がない。
彼らはそれなりににこにこしているから、多分自分のことをかわいそうなんて思っていないのだろう。
それでもかわいそうだと思うのは、私のエゴかもしれない。
でも、ここに住んでいては体がすぐに蝕まれてしまう。

カンボジアは発展が続き、今は建設ラッシュで景気も上向きだ。
そんな中、こんなにも貧しい人たちが取り残されているのが現状なんだ。
フリースクールにも貧しくて公立の学校に行けない子どもがいる。
それでも、ゴミを漁らずに生活できているだけマシだった。

日本に生まれた私はどうだろう??
こんなひどい現実を今まで知らずに生きてきて、知っても何も出来ない私はなんなのだろう。

どうしてこんなに大量のゴミが出るのかを考えた。
そう考えてみたら、自分の日本での生活に行きあたってしまった。
あぁ、私の生活と一緒なんだ。
カンボジアの人もただ、使い終わったゴミを捨てているだけだ。

日本にもカンボジアのゴミ山の原因があるのではないだろうか。
私たち日本人が大量生産・大量消費・使い捨て社会を作り出し、それは世界中に影響を与え、めぐりに巡って今のカンボジアにつながっている。
私たち日本人の生活の結果が、このゴミ山を生んだのだ。

今日本を始め先進国では、資源が有限であるということや地球温暖化が叫ばれ、環境のことが急にクローズアップされ、リサイクルが一代事業となった。
でもカンボジアはそこまで追い付かない。
環境を学ぶ機会もほとんどない。
道端にゴミを捨てることだって平気なのが現実だ。
経済が発展した分、豊かな一部の人にものが入ってきて、使い捨てが良くないということに気づかないうちに、ゴミは増え続けている。

このゴミ山で生活する誰かが病気になり、怪我をするのには、大量消費を肯定してきた私にも責任がある。
使い捨ては便利、コンビニでもスーパーでもビニール袋をもらう自分が、この現実につながっている。
使い捨ては環境に悪い、割りばしだって森林破壊につながる。
そんな当たり前のことは知っているつもりだったけど、知っているつもりと実際にこの環境で暮らしている人たちを見ることは違った。
大量消費がゴミ山で生活していく人を生みだしている。

そのうち、このゴミ山も日本の夢の島と同じように、埋立地になり、そうしたらこのひどい匂いも消え、この土地も売れるようになるかもしれない。
そうなっても、ゴミを捨てる人たちに、ものを大切にする心を伝え続けなければならない。

私は今、この現実をただ伝えることしかできない。
ゴミ山に暮らす人々を今すぐに助けることはできないけれど、せめて日本で暮らしている人に使い捨て社会ってどうなの??って疑問に思ってもらいたい。
それから、ボランティア先のフリースクールでも環境のことを少しでも考えてもらえるようにお話ししたいと思う。
それが少しずつ、ゴミ山の解決につながってくれたら・・・・・・。

もし、もっと知りたいと思ってくれた方がいたら、ゴミ山を援助している団体が日本にもいくつかあるので、インターネットで検索してみてほしい。
「ゴミ山 カンボジア」でたくさんの情報を見ることができる。
ゴミ山の麓にはゴミ山で暮らす子どもの学校もあり、ボラティアで経営されている。
子どもたちはほんの少しの教育の機会を活かそうと、みんな熱心に勉強している。
ゴミを漁る以外の生活手段を与えてようとしているボランティアもある。
いずれも今の私に出来ない活動をして下さっていて、頭が下がる思いである。

カンボジア、フリースクール体験

愛センターというフリースクールに通って思った。

子どもがみんな素直!!とっても真っすぐ!!とってもかわいい!!
授業には真剣に取り組み、休み時間は必死で遊ぶ。
「一番に楽しんだもん勝ち!」とでも言いたいのだろうか、遊び道具なんて本当に少ないのに、小さな校庭には笑い声が溢れている。

ただ、無心に抱きついてきてぎゅ~っと離れない10才以下の男の子とか、本当にかわいすぎる!!

座っていると必ず、となりにすり寄ってきて片言の日本語で話しかけてくれる女の子たち、「I Love You」と言ってずっと手を握っていてくれる小さな女の子を前に私は幸せで胸が詰まりそう。

みんな養子にしたい!!

これが、カンボジアでフリースクールとか学校とかをNGOやボランティアの人たちが作っちゃう理由なんだろうなぁ。

人は誰かに必要とされ、求められることが、とても幸せで心が安らぐことなのだと感じた。
ここにいると、私は本当に満たされる。
「とても幸せだ!!」と叫びたくなる。

戦争がつい20年前まであったカンボジアでは子どもたちの教育が遅れていて、学校にさえ通えない子どもも多い。
カンボジアでは法律で、公立の小学校から高校までは教育費が無料ということになっている。だが現実では、学校の先生の給料が少なすぎ(平均25ドルくらいだそう)。
それでは彼らも生活ができないため、先生に毎日少しお金を渡すというのが、今のカンボジアの習慣になっているそうだ。
そして、そんな学校自体も、午前か午後かのどちらかに通うことになっていて一日中学校があるわけではない。

フリースクールの子どもたちの多くが、1日の半分は公立の学校に行って学び、半分はフリースクールで学んでいる。
勉強時間が少なすぎるため、学校だけでは教育が足りないのである。
もちろん、中には公立の学校に通えずフリースクールにだけ通ってくる子どもたちもいる。

フリースクールは強制ではない。
自分から進んで勉強をしにくるから、子ども達は真剣に授業を受け、誰もが自分から進んで発表をする。
私たちの拙い日本語の授業にも一生懸命取り組んでくれて、その真剣さがひしひしと伝わってくるから、教える方も自然に精一杯のことをしてあげようと思うことができる。

最初の授業でみんなが私たち(よっしーと私)のために歌をうたってくれた。
「テントウムシのサンバ」
私たちが結婚したばかりなのでお祝いの歌を練習していたというのだ。
なんて素敵なんだろう・・・・・・。
私は授業でみんなの夢を聞いた。
ガイド、医者、車会社の社長、エンジニア、建築家、先生、日本人と結婚すること、といろんな夢があった。みんな叶うといいね。
それから、みんなに「幸せだと感じることは何ですか?」と聞くと、するとみんなが「日本人と一緒にお話しすること、遊ぶこと」と答えたのだ!
びっくり!!
きっと、ここに来ている日本人のボランティアの人がみんな子どもに優しく接したからこういう答えが出たのだろうけれど、彼らが日本に来て日本人全てを見てもこう言ってくれるかしら。
こんなことを言ってくれるかわいい子どもたちのために、私たちもがんばらなくては!!
出来るだけのことをして「日本人と仲良くしていきたい。」ってずっと思ってくれていたら幸せだなぁ。

ここのフリースクールは渡辺藍さんという方が自分のお金で経営していて、そんな彼女もお金をかせぐためにベトナムに出稼ぎに出ていてずっと学校にいることはできない。
カンボジアが発展し、国が教育にもっとお金をかけられるようになれば、この事態もきっと解決するのだろう。
今、一生懸命の子どもたちを見て、カンボジアは大丈夫だ、と思う。
そこにちょっとでも役立てたら、私は心から嬉しい。

トゥール・スレーン博物館

ポル・ポト政権はもともとリセ(学校)だった建物を1975年から1979年にかけて監獄として使用し、罪のない人々を数多く投獄し、拷問し、処刑した。
処刑された人々の数は明白になっているだけで約2万人で、そのなかには2000人の子どもも含まれていた。
家族の誰かが捕まると、一族も全員捕まったからである。

博物館は4棟あり、教室の中には、改造した独房、集団房、拷問に使用した器具、犠牲者の遺品が残っている。
中でも、入獄時と処刑後にとられた数多くの写真が、これが遠い昔に起こったことではなく、最近起こったことだと生々しく伝えている。

ポル・ポト政権下で、ポルポトは教育を受けた人は自分に反抗する可能性があると考え、学校をほとんど廃止にし、子どもたちにだけ、自分の考え方を教え、兵士として育てた。
徹底した社会革命を主張して都市の廃絶を指示し、国民全てを農業に従事させ、そこで出来た米を中国に売り、中国からは武器を買って国を強くしようと考えた。
プノンペンの知識層の人たちを皆田舎に連行し、農業を押しつけた。

ポル・ポトは、独裁に反対する可能性のある人々は集団的に殺され、首相をつとめた3年間に、100万人以上が処刑、病気、飢えなどで死んでいったと推測されている。
政権の悪口を言った人は見つかり次第すぐ殺され、また復讐を恐れたため、その家族、親類もみな捕まえて殺された。
家族や仲間を見つけるために、トゥール・スレーンで拷問をした。
その大多数の人が無実だったという。

博物館には数多くの拷問の光景を描く絵が残されているが、なかでも衝撃的だったのは、女の人の乳首をペンチで切りとって、その中にムカデやサソリを入れていく絵だった。
まさに狂気の沙汰であるが、看守たちも必死だったという。看守も少しでも手を抜いているとすぐに密告され、今度は自分が拷問を受ける番になったのだ。
また、拷問中になにも自白がとれないまま、囚人が死んしまっても責任を問われたため、死なせない程度の拷問が毎日続いていた。
囚人は自殺を望み、トイレで自殺が多かったため、トイレの利用が禁止され牢屋の中に小さな箱がトイレ用に置かれた。これは拷問の時に気絶した際、気付けの道具としても使用された。
さらに、食事中にスプーンで喉をさして自殺する囚人も多かったため、食事を手で食べさせた。
飛び降り自殺を防ぐため鉄網が今でも教室を覆っている。

さらに、ここで料理を作っていた女の人たちは、何も知らずに仕事があるといって集められ、一定の期間働くと、ここの秘密を知ってしまったという理由で殺され、何度も入れ替えられたそうだ。

博物館では死んだ人々の首から上の骸骨が展示され、今も悲しみに溢れている。
ポル・ポト政権がベトナム軍に追われて逃げると、カンボジアの国民は皆、この博物館に来て家族がいないか探したそうだ。1週間に3万人もの人が訪れたという。
ポル・ポト政権の下では家族が一度に捕まらないため、みんながばらばらになって暮らしていた。
戦争が終わるとまず、自分の家族を探したのだ。

博物館を案内してくれたのは、私たちのフリースクールの先生の一人だが、彼のお母さんも親兄弟全て殺され、自分だけが運良く生き延びた人だという。
カンボジアでは親族全員が戦争を生き延びたという人がほぼいない。
親族の誰かが必ずポルポトの被害者なのだ。
だから、今でもみんなが戦争の恐怖を知っている。戦争の悲惨さを知っている。家族が離れ離れに暮らす辛さを知っている。
この博物館では、二度とこのようなことが起きないため、戦争の残虐さを伝え続けている。

アキラ

シェムリアップの地雷博物館は、元兵士であったアキラ氏が、ボランティアで自らが除去した地雷や不発弾などの展示をし、カンボジアの内戦の悲劇を伝えている。

カンボジアの内戦は1980年代まで続いていた。1991年、パリ会議でカンボジア和平協定が結ばれ、内戦が終結し、軍隊の武装解除、人権状況の監視、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の設立が規定されたのは、今からたった17年前である。さらに1998年、民主政権の樹立をフン・セン首相が約束するまでに、幾度かのクーデター、首都プノンペンでの軍事衝突があり、カンボジア国民が平和に暮らしていけるようになったのはごく最近のことである。
特に、恐怖政治で有名なポルポト政権の折、1975年代から1979年までの4年間には国民の3分の1が処刑された。

カンボジアに来て、一番に感じたことは、物乞いが多くなったということである。
フィリピン・インドネシア・マレーシア・タイを旅してきてだんだんと姿を見ることが少なくなってきていた物乞いが、カンボジアにはまだたくさんいる。
そしてカンボジアで、物乞いをするほとんどの人は、体の一部が欠けている。
それは下半身であったり、腕であったり、顔がつぶれていたり、さまざまであるが、だいたいが地雷で体の一部を失い、健康に働くことができなくなった人々だということが、見てすぐにわかる。
物乞いをしている人は、体が欠けているからという理由で、働き口がなく生きていくために仕方がなく物乞いをしているのか、初めから自分で働くということをあきらめて物乞いとして生きていければいいと思っているのかはわからない。
痛々しく思っても、彼ら全ての人を救うことなんて、今の私には出来ない。
国が、彼らを救う政策をとっていくことを祈ることくらいしか出来ないのは本当に情けないことだ。
けれども、地雷のことを気付かなかったことのように生きていくことも旅をしていくことも、なんだか嫌だなぁと思う。
こんな現実が世界にあるのだということを、知って欲しい。
そして、あってはいけないことだとみんなに感じてほしい。

もちろん、その反対に、体の一部を失っても、懸命に働いている人もいる。
シェムリアップでは片足で道路の掃除をしている人もいたし、観光地で楽器を演奏してCDを販売している人もいた。それぞれが肉体が欠けても、人間として懸命に生きていこうと頑張っていた。
私は彼らの中に希望を感じて、なんだか救われたような気持ちになった。


アキラ氏の地雷博物館でも地雷で体の一部を失った孤児たちを育てている。
実際に文で読むよりも、写真を見た方がきっと地雷の悲惨さが伝わることと思う。
突然自分のからだの一部が吹き飛ばされてしまったら、家族の体の一部が吹き飛ばされてしまったらどう感じるだろう。

アキラ氏は戦争で自らが地雷を埋めていた。自らが人の命を奪っていた。
その償いになればと、今も地雷を取り除きつづけている。
おかげで、カンボジアの観光地と呼ばれる場所には地雷はなくなった。
それでもまだまだ田舎の方では被害が出る。
戦争が終わっても地雷によって、民間人に被害が出るのだ。

全ての地雷がなくなるために今も働き続けている人がいる。
一方で世界では未だに地雷を作り続けている国がある。

対人地雷ははじめは敵軍の移動を妨げるために作られ、後には味方の軍隊で怪我をしている人には、お金がかかり、死人は放っておけばいいという理由から、わざと味方を殺すためにも使われたという。
このような人を傷つけるために使われた兵器を作り続けていいのだろうか。
1997年カナダ、4年以内に対人地雷を廃棄することを約束させた(ただし、地雷除去や探知の練習のための地雷を残すことは許されている)オタワ地雷禁止令条約が結ばれ、現在、155カ国が加盟している。
ただし、このなかにアメリカ・ロシア・中国・インドは含まれていない。

アキラ氏は戦争中はなにも自分で選択することはできなかったという。
だから、当時の敵のことも「憎くはない。憎いと思えばまた戦争が始まる。自分と同じでただ選べなかっただけだ。」と語っている。
ここで私は、戦争では常に弱い立場にある人が被害にあうのだということを改めて思い知らされた。
そして戦後でさえ、何も悪いことをせずに地雷の被害に遭ってしまう世の中があるということも思い知らされた。

カンボジアの人には希望がある。
地雷は希望を奪ってしまうことがあるのだと、全ての人に知ってほしい。

地雷除去基金ホームページ CLMMRL www.cambodialandminemuseum.org

5カ国目カンボジア。

1月3日。タイのバンコクより陸路でカンボジアを目指した。
ツアーに参加していたため難なくタイの国境を越え、いよいよ入国。

国境からシェムリアップの町まで約3時間。この短い時間でのカルチャーショックは予想以上に大きかった。

まず景色。
本当に何もない。見渡す限り何もない。その上、山や谷のアップダウンもないため、完璧な地平線が広がっている。俺、こんなにキレイな地平線見るのたぶん初めてだ。壮大というか、殺風景というか・・・、
ここがカンボジアという地だからなのか、目の前に広がる大きな景色に何だか素直に「すごい」と思えなかった。どこか悲しげというか、なんというか。うまく言えないけど、寂しい感じがする。


と、言うのもガイドにこんな話しを聞いていたからかもしれない。


彼女の名前はクミさん。
日本人で25歳のかわいい女の子。日本にいても普通にモテそうな子。
そんな彼女と一緒に車に乗り込み、浮かれ気分な俺だった。でも、彼女の話しを聞けば聞くほど俺は暗くなり、この地で6年間も生活していることに物凄い力強さを感じた。


彼女はカンボジアの現状についていろいろなことを教えてくれた。


1、この国には本当に「殺し屋」というものが存在するらしい。
  相手が一般人なら300ドルぐらいで簡単に人を殺せる。相手が警察だったり政治家だったりすると金額  が上がる。でも、選挙の前になると必ず誰か死ぬとか・・・。

2、この国は公立の学校はタダで行ける。でも行かない子供も多い。行けない子供も多い。
  なんでだろう?
  やはり、生活のために働いている子供が多い、というのが一つある。これも大きな問題だけど、俺達が驚  いたのは次。
  この国は先生の給料が安いため、先生が子供の親にワイロを要求するらしい。
  「いくら払えば卒業させてやる・・・。」みたいなことが普通に存在するとか。
  それもこれも先生に対する教育が全くなってないのと、給料が安いということの2つの要因がそうさせて  いるとか。有り得ない・・・。

3、国境からシェムリアップまでの道路。タイのアランヤプラテートから陸路で来る人は絶対に通る道だが、  あの物凄い砂利道あるでしょ?シェムリアップまで車で3時間ぐらいずっと続いてる砂利道。
  あの道がもっと整備されればいいのに?なんて思った人も少なくないはず。でもそこには分けがあった。
  今現在バンコクからシェムリアップの飛行機は「バンコクエアライン」がほぼ独占しているらしい。そし  てもし、この砂利道が整備されてしまうと飛行機を使う人が激減してしまう。どうやらそんな理由がある  らしい。実際、カンボジアの国道で整備されていないのはこの道路だけ。
  また、今年の選挙の最有力候補は、「もし自分が当選したらちゃんと舗装する」と断言しているらしい。
  なんというか、政治がらみの闇の理由で、こんなに重要な道路が舗装されずに使われている。

4、この国では、防衛庁(軍隊)の力がやっぱり強いらしい。そして、めちゃくちゃ・・・。
  ポルポトの名残なのかどうかはわからないが、かなり横暴なようだ。
  クミさんが話してくれた話しでビックリしたのが、ある酔っぱらいが、道端でゲ○を吐いてしまったらし  い。それがたまたま運の悪いことに、軍隊のお偉いさんの車のところ。それに怒ったお偉いさんは酔っぱ  らいの足を撃った。そして、それを見ていたまわりの人間が彼を助けようとすると、そのお偉いさんは「  この酔っぱらいを助けたら撃つぞ!」とまわりを怒鳴りつけ、さらにはその酔っぱらいに「水を汲んで来  て今すぐ車を洗え」と命令。酔っぱらいは足を撃たれて血を流しているにも関わらず、這いつくばって水  を汲みに行ったそうだ。ちなみにこの現場、クミさんも見てたんだって・・・。
  国を防衛している方々がこんなんでいいんだろうか・・・。あ、有り得ない・・・。


シェムリアップに着くまで、こんな話しを永遠と聞いていた。
「危険な場所には行くな」「日が落ちてからの移動は絶対に乗り物を使え」と言われた。


あの~・・・。

俺達、この国でやっていけるんでしょうか・・・。

カンボジアって、結構みんな普通に旅行してるよね~??

ここ本当に大丈夫なの??

聞いてた話しより深刻な感じが否めないのですが・・・。
まぁ、クミさんの話しがかなり厳選されてたのもあると思うんだけどね。それにしても・・・。


俺、ものすご~いカルチャーショックを受けてます。
   
 
まぁ、でもそんな国だからこそボランティアのやりがいはあるよね!
俺達がお世話になるのはフリースクール。子供達の世話と、先生達のフォロー。
きっと、またいい経験になるだろうね。  

ちょっとがんばってきまーす!!